豊陵資料室だより  第18号 10年秋の号

過去の栄光だけが思い出なのか
 消え去ったクラブを追う

資料室では、これまで七回の「特別展」の中で栄光の時代を有したことのあるいくつかの今は存在しない「クラブ」を採り上げてきた。 その都度、その「クラブ」を担ってきたOB達はやるせない淋しさを口にしていた。 何とか復活出来ないものか、ある「クラブ」のOB会長は学校長にクラブ再建を陳情したとも聞く。
 今回の展示、重量挙(ウエイトリフティング)部も柔道部もこの例に洩れない。 重量挙のOB会である豊重会は、資料室の企画に対し彼等の貴重な青春を甦らせる場と考え、昭和三十年代を中心に国体やインターハイの常連校にふさわしい写真や賞状等の資料を提供された。 その中には全国制覇や高校新記録を実証するものも含まれていた。 加えて、クラブ創設、育ての親とも云われる田中繁之先生(84歳)保存の各種役員章、記念章も展示した。 
 資料蒐集等に尽力された高十六期中田智氏は「柔剣道場の奥、倉庫のような場所での練習が、豊高重量挙の一時代を築いた高十一期森和義氏、高十五期矢守力氏等と共に思い起こす場として得られたことを嬉しく思う」と話しておられたが、反面クラブの再興を望む気持も滲ませていた。
 重量挙部だけのことではない。 過去形になった柔道部も最後の主将高55期恩田淳史氏は「部を続けられず先輩には申し訳ない、痛恨の極み、その一言です」と云う。
 この他、男子ハンド・女子ソフト・ラグビー、文科系では新聞・鉄道研・社研等に、充実したかっての高校生活の心の拠りどころがなくなったことに対する空しさ、時代の流れとはいえ、これらの多くの卒業生の心境察するに余りあり、としか云いようがない。

戦争の犠牲者木村久夫氏

虚偽の証言で死刑に

資料室常設展示室に、昭和二十一年五月二十三日、シンガポール・チャンギー刑務所において戦犯として壮絶な死を遂げられた中学十一回木村久夫氏を永く顕彰する場を設けた。 
 木村氏は、豊中中学卒業後、旧制高知高校を経て京都大学経済学部に入学、在学中に学徒出陣、英語が堪能であったため、インド洋カーニコバル島の陸軍駐屯隊で通訳を務めていた。 戦争終了直前スパイ容疑で地元民を処刑した事件の調書を書いたことで戦犯として捕えられ、裁判で上官の命令に従って真実を述べず、加えて、島にいた間、島民にもやさしい兵隊として慕われていたにも拘らず、一島民の虚偽のの証言もあって死刑の判決が下されたのである。 (木村氏については中学の同級生池堂末弘氏が『豊陵会報』六十五号で追悼の意をこめて紹介された)
 木村氏の学問書によって真理追究の喜びを知る努力を続けられた姿勢は、死の直前、田辺元著「哲学通論」の余白に綴った遺書からも知ることが出来るが、これらは戦没学徒の手記を蒐めた『きけわだつみのこえ』にも収録されている。
 資料室では豊中中学時代の写真や高知県に建てられた歌碑(獄中絶筆が刻まれている)遺書の一部、辞世等を紹介している。

次回クラブ展構想について

 過去のクラブを中心とする特別展は来年度で一つの区切りをつけたいと考えている。 まだ取り上げていないクラブも多いが、これらのクラブの系統的な記録が整理保存されていない現状では単独のクラブ展形式をとることが難しい。  ただクラブ展の掉尾を飾るべく、予定していた放送部を主体として各クラブの活動記録の中から、断片的にではあるが学校史に遺せる事項を展示したい。
 卒業生各位には、ぜひ紹介したいと思われる事項(記録)があれば、資料室へお知らせ願えれば幸いである。

OB父子も支えるバドミントン部

 過去のクラブ展の中でバドミントン部からは若い世代が浮き彫りにされた。
 近年はほとんど毎年近畿大会進出が続くこのクラブを蔭から支えたのは先輩諸氏、中でもクラブ活動の基礎を作った高16期西尾宏氏、そして子息の高47期紀一郎氏、加えて高38期奥村泰氏等に、彼等のバックアップが顧問山本先生の熱心な指導を生かした。 夢のインターハイに向っての現役部員の精進に期待を持ちたい。

豊陵資料室に寄付金をいただきました

旧職員  塩飽忠一
中17回  広瀬精一
中23回  上田雄一郎
高2期   淺井由彦、斎藤省三、高室光博、政木 武
高3期   鈴木不二男
高10期  故内田臣彦夫人
高11期  森 和義
高18期  山下栄一
高38期  奥村 泰、原納成伸
高40期  石橋浩二
バドミントン部OB会有志
重量挙部OB会有志